日本って素晴らしい

院生のつぶやき

2015年4月27日月曜日

【映画】もののけ姫を解説〜アシタカのあざ視点〜

もう何度もDVDやロードショーで観ているはずなのにふと、

なんでアシタカのあざ消えたんだ?」

という事を考え始めたら寝られなくなってしまった。
同じ運命にある人達の為にも考えねば(使命感)


というわけで、もののけ姫をアシタカのあざ視点でまとめて考えてみた。
完全主観なので、悪しからず。



まずはあざの誕生から。

アシタカの腕にできたあざは元々、ナラの守(しょっぱな出て来るイノシシ)の恨みから来ている。森を破壊した人間に対する恨みが、撃たれた銃弾によって爆発してタタリ神になった。その恨みの一部がアシタカの腕に憑依合体し、あざが残った。


つまりこのあざは、「人間が憎くてたまらない」という強い怒りの現れ。だから無関係のアシタカの命も奪う。村を出た後、このあざは三度暴発する。一度目は農民を襲う野武士を弓で射る時、二度目はシシ神との初対面、三度目は烏帽子御前との会話中、である。


一度目の弓を撃つ時。

彼は民家の女性を襲う野武士を見て思わず怒り、叫んでしまう。この直後アシタカの腕は暴走する。これは最初に出て来るタタリ神と同じで、怒りや恨みが爆発するとタタリ神化が進行してしまう。後に出て来るオッコトヌシ様も、人間に対する恨みに身を任せた時にウニョウニョが生えてくる。つまりアシタカが怒ると、それに同調して腕も暴走してしまうということだ。暴走後にあざが広がった事からアシタカは学習し、その後は感情を高ぶらせないように意識している。


二度目は森でシシ神に会った時。

水を飲んでいる時にシシ神に見られた途端、腕が暴走し始める。後のオッコトヌシ様シーンやシシ神暴走シーンで明らかになるが、タタリ神のウニョウニョ(神の恨み)は水に入ると遅くなったり、取れたりする。これは恨みが”穢れ”で、水で洗い流す事が出来る、という描写の可能性がある。またシシ神は、タタリ神になったオッコトヌシの命を奪う。つまり森にとって恨みは”穢れ”でありシシ神に取り除かれる恐れがあるため、アシタカの腕はシシ神に強く反応したという次第である。実際、暴走後アシタカは水に腕を突っ込んで鎮めようとしている。



三度目は烏帽子御前との会話中だが、その前に彼は一度暴走しかけている。
タタラ場の男達が、ナラの守(最初のイノシシ)を追い払った事を笑いながら話すシーンである。アシタカは自分の村の長になる予定だったが、あざを受けた事で余命が一気に縮まった。それでも何とか原因を探し解決しようと長旅をして、遂に元凶を作った連中に辿り着いた。そしてあろう事かその連中は、自分達がした事をこれっぽっちも悪いと思っていなかった。彼は沸き上がる怒りを何とか鎮めようと、自分の腕を握りしめている。普通の人間だったらここで怒り、喚き立てるだろう。その場にいる全員を殺したいと思うのが当然だ。しかしアシタカはそうしなかった。


そして三度目の暴走。

アシタカは烏帽子御前に、銃を作っている場所へ案内され話をした。しかし彼女は事情を理解しても謝るだけで、森の開拓は止めないと断言する。金を得る事で人々を豊かにできると信じている彼女は、自然の破壊に対して一切の迷いがない。アシタカは怒りをあらわにし、あざは暴走する。しかし烏帽子を殺しても、あざの恨みは晴れない。この時点でアシタカは自分の命をほぼ諦め、せめて森と人間の共存する道を探そうと努力する方向へシフトしていく。



以上、三度の暴走を繰り広げたアシタカのあざだが、最大の見せ場はこの後の
烏帽子vsサン を食い止めるシーン
である。このシーンではアシタカはあざを見事にコントロールしている。憎しみに身を委ねるサンと、自分の主君としての力を見せつける為にサンを利用する烏帽子。双方に対する静かな怒りを抑えながら、彼は森との対話のためにサンを救う。



その後、撃たれたアシタカはシシ神に助けてもらうものの、腕のあざは残ったまま生き返る。この時点ではシシ神にとってアシタカはただの「人間」であり、生かす価値があるとしても森の敵である事に変わりはない。その後イノシシ達が怒る様子や、オッコトヌシとモロが「この森を去れ」と言っている事からも、彼らの恨みが消えていない事が分かる。


しかしそんなシシ神も、首を取られた後は怒りに包まれタタリ神になる。この時点でアシタカは誰よりも怒りをコントロールできており、神に近い域に達している。シシ神は最後、アシタカのその精神を認めてあざを取り除いた。わずかに残ったあざの”あと”は、怒りのコントロールを忘れないようにするためのもの。




と、ここまで「もののけ姫」をあざ中心にまとめていて思ったことを以下にまとめる。
ここから少し抽象化するかも。

もののけ姫の登場人物は主に4つのタイプに分けられる。

  1. 合理的で手段を選ばない烏帽子
  2. 宗教的に神に従い怒りに身を任すサン
  3. 私利私欲の為に動くジゴ坊
  4. 怒りに耐えつつ皆の共存を目指すアシタカ

現実にも手段を選ばない人間、合理的すぎて頭の固い人間、宗教を信じて考える事をやめる人間、私利私欲で動く人間はいる。そして彼らは決していなくならない。人間は欲に弱く、理論か宗教でコントロールするか、欲に身を任せるかしか手段はない。欲が強い為に人間は争い、奪い合う事をやめない。性欲は浮気を生み、食欲や物欲は時代を経て強まっていく。この問題はムヒカ大統領のスピーチでも語られている。この欲の成長を止める為には、欲が満たされない時に感じる「怒り」をコントロールしなければいけない。自分の欲を邪魔する人に対する「憎しみ」をコントロールしなければいけない。


と言っても、現実にはそう簡単ではない。サンがラストで
「アシタカは好きだ。でも人間を許すことは出来ない」
と言っていることからも分かる通り、憎しみはそう簡単に消えるものではない。
怒りが思うようになるなら皆怒らない。



しかし共存を目指す事はできる。人間と自然だけではなく、人間同士も。
イノシシの死体に山犬が潰されている時、タタラ場の男達は山犬を殺す以外の選択肢は有り得なかったはずだ。しかしアシタカを信じて山犬を助けた。人間の多くは、悪気があって欲に身を任せているわけではない。皆どうすれば良いか分からない。ただ誰か1人。信用に足る人物が1人助けを請えば、皆助ける。ただ裏切られても怒ってはいけない。
助けを期待してはいけない。怒りに支配されてしまうからだ。どんな人間も助けながら、1人で生きる覚悟を持たなければいけない。


怒りや憎しみを超えた先にこそ、"曇りなき眼"で見える景色が広がっていると信じたい。


おわり

2015年4月19日日曜日

【日本】地方再生って何?

先日こんな動画を見つけた。





日本の地方再生の為に動くアメリカ人、Alex Kerr氏のスピーチ。
日本語版スクリプトはこちら

15分もある動画だけど、完全に見入った。

動画は
・地方再生の現状と問題
・自身と地方再生の出会い
・新しい地方再生(祖谷(徳島)と小値賀町(長崎)の例)

という構成。この動画を観て最初に思ったことは

「祖谷に行きたい」

だったが、時間が経つにつれ

「地方再生って政策でもよく聞くが結局何してきたんだ?」

ということに興味を持ち始めた。
地方再生の大まかなイメージは、

人口減少

学校や病院が潰れて不便に

更に人口減少

自営業店なども減少

...という負の連鎖を止めよう!

という感じ。動画の冒頭でもあるように、国は税金を使ってかなり謎な事業に手を出したりしている。

元々東洋経済オンラインの記事で地方再生関連の記事は目についていたし、都心の人の多さには日頃からうんざりしていた部分もあった。満員電車や渋滞に疲れてまで都心に住まなければいけないのか?この広い地球でどうしてこんな狭い所に集まってるんだ?とか子供の頃から思ってた。

事実、

・衣(服屋、洗濯用品)
・食(スーパー、レストラン)
・住(電気、水道、トイレ、電化製品)
・仕事(ネットと電話の通信環境、PCショップ)
・遊び

さえ何とかなれば全然地方に住みたい。

この食と住を仕上げたのがAlexさんの仕事であり、実に的を射ている。
国が何をしてきたかはここに書いてあるが、衣食住や遊びに関してはAlexさん達や地元民のように民間で仕上げた方が遥かに良い状態になるし、持続もする。では国は税金をどこに使えば良いんだろう?

と考えた時、残ってるのは「仕事」だけ。
ネットの普及により、書類作成、ミーティング、プレゼンテーション、ソフトウェア開発といった事は遠隔地にいても実現可能になった。仕事の管理もネットで出来る今、会社に人を集める意味は薄れつつある。しかし集中管理の方が効率が良く、コストも削減できると考えている会社は多い。国が税金を使うべき所はまさにここにあるのではないだろうか。人を都心から地方に分散させたいならば、具体的にどこにどう分散してどう現状の生活を維持させるか、というプランを提示して支援すべきではないだろうか。国は多額の税金を扱えるのだから、民間レベルの事業ではなく、会社や産業の支援という形で地方活性化を行えば、意味のある地方再生になると思う。

そうは言っても国が変わるわけでもないので、

・民間レベルでの衣食住の改善
・会社内での地方分散化計画

を遂行するしかないのかもしれない。
最近では街全体を利用したスマートグリッドプロジェクト、移動ロボット実験などが増えてきているが、こういったプロジェクトを介して地方の生活インフラを整えるという道もあるかもしれない。

狭いようで広い日本の国土をどう使っていくか。
これからも考えていきたい。




2015年4月12日日曜日

【備忘録】どうやってipythonファイルをgithubに上げてnbviewerで見れるようにするの?

ipythonで書いたコードはnbviewerで共有できるらしい。



という事を知ったが、直球なまとめが見当たらず一人苦労したので備忘録がてら。
ipython notebookとnbviewerに各々の事は分かりやすく書いてあるので、ここでは主にgithub周りの話を。


nbviewerを使うにはgithubを使うが、これが初心者には意味不明な存在。



調べると色々と出て来るが、nbviewerを使いたいだけの人には必要ない情報が多い。

nbviewerを使うにはgithubにアカウント持ってファイルを上げられればいいだけ
後はnbviewerのトップページで自分のユーザーネームで検索すれば良い。


というわけで、githubのアカウントを持つのも何とかなるが、問題はファイルの上げ方。


githubのページでレポジトリは作れるけれど、ファイルやフォルダは基本的にターミナルなりコマンドプロンプトでコマンドを打ち込む事になる。

コマンドはここにまとまっているが、ただ上げたい人は以下だけで良い。

1. githubから自分の環境にclone
 $ git clone https://github.com/YYYYYY/XXXXX.git

こんな感じでレポジトリのページの右下辺りとか真ん中上辺りにclone用URLがいるはず。


2. 色々ファイルなりフォルダをcloneされたディレクトリに作ったら、commit
$ git commit -a -m "<comment>"
3. からのadd
$  git add -A

これで全てがaddされた。最後は

3. githubにアップロード(push)
$ git push origin <branchname>

<branchname>はmasterとかが多い。

clone, commit, add, push
この4つやれば無事ipythonのコードをweb上で見れる。
こんな感じ。

githubはそれ以上に多彩な機能ももちろん備えているが、それはまたの機会に。