「なんでアシタカのあざ消えたんだ?」
という事を考え始めたら寝られなくなってしまった。
同じ運命にある人達の為にも考えねば(使命感)
というわけで、もののけ姫をアシタカのあざ視点でまとめて考えてみた。
完全主観なので、悪しからず。
完全主観なので、悪しからず。
まずはあざの誕生から。
アシタカの腕にできたあざは元々、ナラの守(しょっぱな出て来るイノシシ)の恨みから来ている。森を破壊した人間に対する恨みが、撃たれた銃弾によって爆発してタタリ神になった。その恨みの一部がアシタカの腕に憑依合体し、あざが残った。
つまりこのあざは、「人間が憎くてたまらない」という強い怒りの現れ。だから無関係のアシタカの命も奪う。村を出た後、このあざは三度暴発する。一度目は農民を襲う野武士を弓で射る時、二度目はシシ神との初対面、三度目は烏帽子御前との会話中、である。
一度目の弓を撃つ時。
彼は民家の女性を襲う野武士を見て思わず怒り、叫んでしまう。この直後アシタカの腕は暴走する。これは最初に出て来るタタリ神と同じで、怒りや恨みが爆発するとタタリ神化が進行してしまう。後に出て来るオッコトヌシ様も、人間に対する恨みに身を任せた時にウニョウニョが生えてくる。つまりアシタカが怒ると、それに同調して腕も暴走してしまうということだ。暴走後にあざが広がった事からアシタカは学習し、その後は感情を高ぶらせないように意識している。
二度目は森でシシ神に会った時。
水を飲んでいる時にシシ神に見られた途端、腕が暴走し始める。後のオッコトヌシ様シーンやシシ神暴走シーンで明らかになるが、タタリ神のウニョウニョ(神の恨み)は水に入ると遅くなったり、取れたりする。これは恨みが”穢れ”で、水で洗い流す事が出来る、という描写の可能性がある。またシシ神は、タタリ神になったオッコトヌシの命を奪う。つまり森にとって恨みは”穢れ”でありシシ神に取り除かれる恐れがあるため、アシタカの腕はシシ神に強く反応したという次第である。実際、暴走後アシタカは水に腕を突っ込んで鎮めようとしている。
三度目は烏帽子御前との会話中だが、その前に彼は一度暴走しかけている。
タタラ場の男達が、ナラの守(最初のイノシシ)を追い払った事を笑いながら話すシーンである。アシタカは自分の村の長になる予定だったが、あざを受けた事で余命が一気に縮まった。それでも何とか原因を探し解決しようと長旅をして、遂に元凶を作った連中に辿り着いた。そしてあろう事かその連中は、自分達がした事をこれっぽっちも悪いと思っていなかった。彼は沸き上がる怒りを何とか鎮めようと、自分の腕を握りしめている。普通の人間だったらここで怒り、喚き立てるだろう。その場にいる全員を殺したいと思うのが当然だ。しかしアシタカはそうしなかった。
そして三度目の暴走。
アシタカは烏帽子御前に、銃を作っている場所へ案内され話をした。しかし彼女は事情を理解しても謝るだけで、森の開拓は止めないと断言する。金を得る事で人々を豊かにできると信じている彼女は、自然の破壊に対して一切の迷いがない。アシタカは怒りをあらわにし、あざは暴走する。しかし烏帽子を殺しても、あざの恨みは晴れない。この時点でアシタカは自分の命をほぼ諦め、せめて森と人間の共存する道を探そうと努力する方向へシフトしていく。
以上、三度の暴走を繰り広げたアシタカのあざだが、最大の見せ場はこの後の
烏帽子vsサン を食い止めるシーン
である。このシーンではアシタカはあざを見事にコントロールしている。憎しみに身を委ねるサンと、自分の主君としての力を見せつける為にサンを利用する烏帽子。双方に対する静かな怒りを抑えながら、彼は森との対話のためにサンを救う。
その後、撃たれたアシタカはシシ神に助けてもらうものの、腕のあざは残ったまま生き返る。この時点ではシシ神にとってアシタカはただの「人間」であり、生かす価値があるとしても森の敵である事に変わりはない。その後イノシシ達が怒る様子や、オッコトヌシとモロが「この森を去れ」と言っている事からも、彼らの恨みが消えていない事が分かる。
しかしそんなシシ神も、首を取られた後は怒りに包まれタタリ神になる。この時点でアシタカは誰よりも怒りをコントロールできており、神に近い域に達している。シシ神は最後、アシタカのその精神を認めてあざを取り除いた。わずかに残ったあざの”あと”は、怒りのコントロールを忘れないようにするためのもの。
と、ここまで「もののけ姫」をあざ中心にまとめていて思ったことを以下にまとめる。
ここから少し抽象化するかも。
もののけ姫の登場人物は主に4つのタイプに分けられる。
- 合理的で手段を選ばない烏帽子
- 宗教的に神に従い怒りに身を任すサン
- 私利私欲の為に動くジゴ坊
- 怒りに耐えつつ皆の共存を目指すアシタカ
現実にも手段を選ばない人間、合理的すぎて頭の固い人間、宗教を信じて考える事をやめる人間、私利私欲で動く人間はいる。そして彼らは決していなくならない。人間は欲に弱く、理論か宗教でコントロールするか、欲に身を任せるかしか手段はない。欲が強い為に人間は争い、奪い合う事をやめない。性欲は浮気を生み、食欲や物欲は時代を経て強まっていく。この問題はムヒカ大統領のスピーチでも語られている。この欲の成長を止める為には、欲が満たされない時に感じる「怒り」をコントロールしなければいけない。自分の欲を邪魔する人に対する「憎しみ」をコントロールしなければいけない。
「アシタカは好きだ。でも人間を許すことは出来ない」
と言っていることからも分かる通り、憎しみはそう簡単に消えるものではない。
怒りが思うようになるなら皆怒らない。
しかし共存を目指す事はできる。人間と自然だけではなく、人間同士も。
イノシシの死体に山犬が潰されている時、タタラ場の男達は山犬を殺す以外の選択肢は有り得なかったはずだ。しかしアシタカを信じて山犬を助けた。人間の多くは、悪気があって欲に身を任せているわけではない。皆どうすれば良いか分からない。ただ誰か1人。信用に足る人物が1人助けを請えば、皆助ける。ただ裏切られても怒ってはいけない。
助けを期待してはいけない。怒りに支配されてしまうからだ。どんな人間も助けながら、1人で生きる覚悟を持たなければいけない。
怒りや憎しみを超えた先にこそ、"曇りなき眼"で見える景色が広がっていると信じたい。
おわり